『銀のゴルフ』は、中部銀次郎さんのゴルフの精神を漫画化したものだ。銀次郎さんは日本アマ通算六勝、西日本オープンでプロを退けて優勝など、アマチュアゴルファーとしての偉大な成績を残し、亡くなってから五年を越えた今も、根強いファンを持っている。
僕もファンの一人だ。
そして『銀のゴルフ』によれば、中部さんはスウィング中に頭の位置を正しくキープするために、壁に頭をつけ、クラブを持たずに素振りする特訓を繰り返していたらしい。
そのイラストで見た中部さんの特訓の様子と、いま、僕の目の前にいる彼の素振り風景とが、ぴったり一致した。
きっと、彼も中部ファンの一人なのだろう。僕よりも十は下であろう、二十代の前半とおぼしき若い青年だが、本物のゴルファーを見極めるいい目を持っているようだ。僕はなんだかいい気分になり、鼻歌をならしながら、『銀のゴルフ』に描かれていた一話を思い浮かべた。
練習では、そうして壁に頭をくっつけていた中部さんだが、ラウンドとなると、――頼るべき≪壁≫がない――。そこで中部さんは、ラウンド時には、――脳天一本の髪の毛を空から引っ張って――もらっているというイメージをつくりだした。
そのイメージは僕も真似てみたが、まだまだ上手くいかない。とくに緊張しているときは、髪の毛一本をイメージするのに手間取り、頭の中で「数本」の髪が、しかもピンとはられずに、頼りなくゆらゆらと風に揺られる映像が浮かんできたりする。
これは想像力が豊かなのか、乏しいのか、僕はそれさえ判断できない。まあ、少なくとも、壁に頭をくっつける特訓が足りないのは確かだろう。
そんなくだらないことを考えているうちに、スタート時間になった。そしてスタートホールに着いてみると、あれ、さっきの青年が同じ組にいる。彼は特訓に必死で、僕のことなどまったく目に入っていなかっただろうが、僕は勝手に偶然の喜びを感じた。 だから、ラウンド中は青年のプレーをよく見ていた。すると彼のあらゆる動作が、中部さんを髣髴とさせるのだ(といっても僕は本人にお会いしたことがないので、本で読んだ限りの想像だが……) たとえばスタンスをとるとき、彼はまず、クラブのフェースを狙う方向にスクェアに合わせる。それは『ゴルフの流儀』にある中部流のスタンスのとり方だ。 ――「ボールはクラブフェースで打つわけですから、まずフェースを狙う方向にスクェアにあわせることから始めないと飛行ラインは決まらない」――。次に、左足の位置を決め、それから右足の位置を決める。 この手順で立つと、疎密感や遠視感といった目の錯覚を防げるのだと中部さんはいう。たとえば、――電車のレールなどは、近い所は広く見え、遠くへいくにしたがって狭くなり、最後には左右のレールが交わって見える――。実際は、レールはどこまでも平行に置かれていて、交わっていないのに。 同様の錯覚が、――ボールが飛んでいくラインとスタンスのライン――にも起こることは、体験として知っている人もいるだろう。 本書ではさらに、つま先の開き方やグリップにまで話は展開しているが、彼はどこまでもその通りに実演してくれる。まるで、中部さんが彼にのりうつってでもいるようだ。
ってそんなバカな。ははん、と心の内で苦笑していると、今度はあるホールのグリーンで、彼は突然、鼻をきつくつまんだ。 知っている、これも中部さんの仕草だ。 『わかったと思うな』によれば、相手がパット中にクシャミが出そうになったら、そうして鼻をつまむ。すると、くしゃみが出ずにおさまるのだ。それくらいはマナーとしての常識だと中部さんは言っている。 しかし僕は、この方法を本書を読んで初めて知ったが、そのような無知に対して、中部さんは次のように嘆いているのだ。 ――ぼくがゴルフを覚えた頃というのは、申し開きが許されない時代で、躾が非常に厳しかった――それだけに、――クシャミの止め方ひとつにしても、「知らなくていい」っていういまの時代には、困惑を覚えるわけです。昔はクシャミの収め方なんて、誰でも知っていたものです――。 これら中部さんのゴルフへの情熱を、すっかり自分のものとして身につけている青年がいる。その彼に出会い、一緒にプレーできるなんて……。僕は感動とともに、中部ファンとして、青年に及ばないことの恥ずかしさとで、なんてことだろう、涙があふれてきた。 うっ、うっ。小さな嗚咽まで出しながらハンカチで涙を拭う。すると、後ろから、「おっさん。何プレー中に泣いてんだ。きもいんだよ」と心底あきれ、嫌悪感を漂わす、野太い声が響いてきた。 振り向くと、その声の主は、青年だった。僕は君に感動していたのだと、思わずすがりついて説明しようとすると、「きもっ!」と思いっきり突き飛ばされた。 あとで人を通じて聞いたところによると、青年は中部さんの存在などまったく知らず、頭を壁にくっつけて素振りしていたのは、彼の所属していたゴルフ部の習慣で、スタンスのとり方は、ラインがどうのという理屈でなく、野球のホームラン宣言よろしく絶対狙ったところへ打つという意気込みを見せていただけ、そして鼻をつまんでいたのは、クシャミではなく花粉症で鼻が出そうになったのを慌てて止めようとしただけだった。 僕はどうやら、想像力が豊かなようだ。 |
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